失恋バンジーからすべてはつながっていた
すべてはつながっている
20歳の6月失恋して毎日朝起きると涙がポロポロ出てきて
食事も喉を通らなくなってどんどん痩せていってしまった
胃がんの手術をした後と変わらないくらい
父から「お前は何か病気なのか?」と心配されたくらい
今思えば、失恋の痛みなんてそのうちに癒えるし、大したことないんだけど
その時の私は自分が本当は好きだったのに
天邪鬼な性格で相手を試すような言動で
相手を傷つけて怒らせて拒絶させてしまったことに
後からただただ後悔して反省していた
一度自分の口から出てしまった言葉はもう元には戻せないんだってことに
いい歳して初めて気づいた時だった
この彼とのことは以前の記事にあれから18年ぶりに再会してお互いに許し会えたことが書いてあるので、興味がある方はどうぞ
あの時、大学まで辞めてしまった彼ですが今はとても立派で素敵な方になってました
そんな失恋ボロボロの私は3ヶ月後の9月にはオーストラリアにいた
初飛行機
初海外
初一人旅
どうにかしてこのメソメソイジイジした自分を吹っ切りたいと思っていたときに
大学の生協に置いてあった『Contiki (コンチキ)ツアー』のパンフレットをたまたま手に取ったのがきっかけだった
コンチキツアーは18歳から35歳までの若者しか参加できない異文化交流バスツアーで
現地集合、解散で世界中から集まった旅好きと賑やかに旅をするというスタイルが
なんかよくわからないけど、何が起きるかわからない感じに、自分を変えたいと思っていた私は引き寄せられた。
「成人式の着物(100万円なんて)いらないから、その3分の1の金額で一人でオーストラリアに1ヶ月旅に出させてほしい」
両親に頼んで、バイトも休ませてもらって旅立った
子供の頃、英会話教室に通ってはいたけど英語には自信がなかったし
一人旅もしたことがないし、オーストラリアについても全然知らなかった
本当はヨーロッパのツアーに参加したかったけど、ヨーロッパの場合は遺跡を巡ったりするのに英語力がないとあまり理解できずに楽しめないかもしれないと旅行会社の人に言われた。
オーストラリアの方がアクティビティがいろいろあって、そんなに英語が得意でなくても楽しめるかもと
じゃあ、まあそうしようかなという単純な理由で決めたオーストラリア
もう一つ大きなポイントは
バンジージャンプができること
一度飛び降りて死んだつもりでやり直したい
今思えば、そんなんで飛んでたら人生何回バンジーしないといけないのよって
言ってやりたいけど
若い私にとってはもう今までの人生で一番辛かったことなんですわ
行きの飛行機なんて、緊張しすぎてずっとシートもリクライニングにできず
食事も喉を通らず
シドニーのホテルまで空港からタクシーに乗ってホテルの住所を見せて乗った時も
本当にちゃんと連れていってもらえるのかどうか心配で
タクシーの運ちゃんが気を使って話しかけてくれても、全然上の空だった
夜遅くにホテルに着いて鍵を受け取り、部屋に行ったら中からチェーンがかかっていて開かない。
えー、どうしよう・・・って思っていたら、中から寝ぼけた顔した女の子が出てきて開けてくれた
ドイツ人の女子二人組といきなりシェアルームだったらしい
聞いてないし^^;
次の日の朝からツアーはスタートして、私たちは大きなバスでシドニーからケアンズまでビーチ沿いをずーっと旅していった
参加メンバーは、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、ニュージーランド、カナダ、ウェールズ、南アフリカ とかからだったかな?覚えているだけでも
夫婦やカップルで参加している人もいたし、友達同士で参加している女子、オタクっぽい人、ヒッピーみたいな人、シャイな人、気難しい人、何考えているかわかんない人、親切な人
いろんな人がいたな 笑
オーストラリア人のマッチョで優しいドライバーと、いつも明るく元気なツアーコンダクターのハイディという女性がいて、いつもみんなを楽しませながらケアしてくれていた
みんなの前で英語で自己紹介するのに、何か印象に残ること言った方がいいのかな〜と思って、
「私は日本でもベビーフェイスって言われるからベィビーフェイスケイコって呼んでください」とかいうよくわかんないことを言ったんだけど
まあ、それをみんなが笑ってくれて覚えてくれて私は「ベイビーフェイス」と呼ばれていた
ツアーは英語が共通語でハイディが説明してくれるオージーなまりの英語がさっぱり理解できないで、不安しかない私に優しいドイツ人の女子がもう一度ゆっくり私にわかるように英語で説明してくれたりしていたな
他にも日本人で参加している子たちがいたけど、その中でおそらく一番英語ができなかった私にハイディは一番英語がペラペラだった日本人の女子を呼んで
彼女のことをフォローしてあげてねと紹介してくれた
それが私より1つ年下のCちゃんだった
このCちゃん、後にこれから先の私の人生に大きな影響を与えることになります!
彼女は大学のお友達と4人で参加していたし、私もいつも彼女に頼りっぱなしというわけではなく、いろんな国の仲間に助けてもらいながら旅をしていたわけですが
ピザが食べたくてもピザって言って全然通じなくて10回くらいピザの言い方を変えてみたりピッツァか!ってやっと気づく
ドリンクをオーダーするのに、絶対に通じるジントニックしか飲まなかったり
マックでオーダーしたら、ランチ食べにいったのになぜかホットティーが2つ出てきて
いや、この暑い中ホットティーを2つ頼むとかないわ〜って思いながら、
間違っているとも言えずに汗かきながらあっつぃ紅茶を飲んだり
トラブルが起きた時に、英語で説明できなくて、紙に絵を描いて説明してようやくわかってもらったり
そんなレベルの英語力の私が最後の方は
ピザ食べたいから頼むけど食べる?ってみんなに声をかけて
デリバリーのピザをホテルの部屋に届けてもらえるようになって(今みたいにUberとかないから、もちろん電話)みんなから驚かれたり 笑
ドイツ人のヒッピー風男子に教えてもらったドイツ語で冗談言ってからかってみたり
毎日いろんなアクティビティに参加して
馬に乗って海岸を走ったり、気球に乗ったり、あんまりホテルがいいところじゃない時は
盛り上がれるパーティーが企画されていたり
バンジージャンプはね
下が海になっているところでクレーンで吊るされているところから50メートル飛び降りるというものでした
え?これ大丈夫?っていうくらい簡易なのを足に装着されて
「ダイジョウブー モンダイナーイ シンパイナーイ 1、2、3 バンジー!!」
って言われて飛ぶ
以上
途中真っ逆さまに落ちていく時に一瞬気を失いそうになるけど
水面ギリギリのところで、ビヨーンビヨーンと上にバウンドして ハッとするみたいな
アクティビティのどれに参加するかは自分で選べるんだけど、バンジーに参加したのはほぼ日本人女子だけだったかな?
クレイジージャパニーズガールズって言われてました
この時の真っ逆さまに落ちていく感覚って今までの人生で味わったことがないし
今も写真を見ながら思い出してよくやったなと思うけど
私は結構平気でもう一度やってみるか?って言われたら
YES!っていうと思う
むしろ時々、自分の中で息詰まってウワァーーーー!!!って叫びたくなるような時に
この時のことを思い出して、もう1回飛んだろか!!って思う時もあるくらい
そんなこんなしているうちに、私はすっかり失恋のことなんてどこ吹く風って感じで
帰ってきた頃にはご飯も食べられるようになり
一つ図太くなって
いろんな国の人たちと過ごすことの楽しさも覚えて
自分の意思で英会話レッスンに通うようになったりしました
この時の英語の先生は大使館で働いていたイケメンイギリス人、マッチョなアラスカ出身のアメリカ人、ちょっとお姉キャラなマイアミ出身のアメリカ人とかだったけど
アメリカ人の先生は私のことを「エキセントリックガール」と呼んでいた
「ベイビーフェイス」ケイコは「エキセントリック」になってたんだなぁ
今もよく「ヘンタイ」とか「不思議な人」「じんわり変わってるよねぇ」「宇宙人」とか言われたりするけど
世界共通の認識だったみたいです
時は過ぎ
25歳のワタシ
よく働き、よく遊んでました
3ヶ月くらい休みなく働いても全然大丈夫だったし、お金もいっぱい貰えてたし、楽しかった。
一人旅でバリに行って泊まったホテルでルームシェアした台湾人の女性やホテルのスタッフ、お客さんいろんな人と仲良くなって楽しかったので、
北海道にある同じホテルにも休みがポーンと取れた時に一人で行ってみた。
そしたら、そのホテルのレセプションでチェックインをしてもらった女性が
なんと
Cちゃんだったのです!!!
「わーーー!!!」「えーーー!!!」
「なんか見た事ある人だと思ったら!!!」
5年ぶりの再会
彼女は大学卒業後に都内のホテルで働いていたけれど、子供の頃から世界中のいろいろなところで家族で滞在して楽しかったこのリゾートホテルで働くことにしたそう
そこで彼女に言われたんです
「あなたもここで働いちゃえばいいじゃない」
え?
あはは
そうだね〜
なんて笑っていたのが
本当に働くことになったのがその1年後かな?
その後もバリやプーケット、石垣島などこのホテルに滞在することが多くなり
年間でこんなにお金使ってるんだったら、いっそのこと若い時の経験として
1、2年ここで働いてみようかな?って思っちゃったんです
英文の履歴書と職務経歴書を提出して、英語での面接を受けて
こりゃダメだな〜と思いながら帰ってきたら
「英語は働きながら上達していけばいいですから」と言われて採用決定
いずれ海外で働きたくてこのホテルで働いている人が多いのですが、私はまず北海道に配属され、その後希望通り石垣島で働くことになりました。
このホテルは世界中からいろいろな国のスタッフが集まっていて共通語は英語なので
20歳の時に参加したコンチキツアーの経験がちょっぴり役立っているかもな
私の上司はインドネシア人、ベルギー人ハーフ、ベルギー人、日本人、アメリカ人と様々だったし、日本にいながら一緒に働いていた仲間は
フランス、アメリカ、台湾、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、イタリア、マレーシア、タイ、シンガポール、インドネシア、タヒチ、カナダ、フィリピン、モーリシャス・・・
こんな感じかな?
ここで知り合った仲間がこの後も私の人生に繋がっていき
プーケットに行けばバカンスに来ていたタイ人の友達にホテルでばったり会い、母をバイクに乗せて買い物に連れて行ってくれたり
日本人の先輩が自分の部屋に泊めてくれていたれりつくせりだったり
台湾に行った時も台湾人の友達に何年かぶりで連絡してみたら、会いに来てくれて、いろいろなところを案内してくれて母の荷物を持ってくれたりおもてなし 母感激
「あなた彼と結婚したら?」とまで言われた 笑
バリ人の友達がいっぱいできて、友達の友達を紹介してくれたり、その奥さんたちとも仲良くしてもらい
バリに行ったら泊めてもらえたり、居心地良すぎる場所
フランスに行った時も、フランス人の男の子のお家に本人がいなかったのに泊めてもらって
お父さんやお母さんにすごく良くしてもらったり
ニューカレドニアの離島に行ったら、ホテルのコンシェルジュが先輩で
休みの日にお家に招待してくれて、切り干し大根やらわかめご飯食べさせてくれたり
まだ行けてないけど、オーストラリアに遊びにおいで〜って言ってくれたり
オランダに遊びに来てって言ってくれたり
一緒に働いたことないのに、友達の友達がもうすでに友達になっていて
奥さんたちの方が私と仲良くなってたりとか
石垣島には友達が今も住んでいるからいつでも行けば誰かしら遊んでくれるし
北海道、岡山、京都、広島 日本でもいろんなところでおもてなししてくれる人がいて
ホテルで働いていた時に付き合っていた彼と辞めた後に大阪に転勤ができる会社を選んだから、転職した化粧品会社で出会った人たちとも
私があのホテルで働いていなければ出会ってなかったのかもなとか
振り返れば、あの時オーストラリアを選んでいなかったら、Cちゃんと出会っていなかったら私を囲んでくれているこれだけの人と出会うこともなかったのかもしれない
そもそも失恋してバンジーやって忘れるーってなってなかったら
オースオラリア行ってなかったし
人生とは不思議なものですね
そして、Cちゃんはその後タヒチに異動し、一緒に働いていたイタリア人の彼と結婚しました❣️
ちなみに
成人式は知り合いの方が100万円の着物を貸してくださり 笑
一応私も儀式には参加しました
大学の入学式は出ませんでしたけど
こんなマイペースで突拍子もない娘をもつ両親に感謝しているのは
私がやることに反対はせずに、信じていつも見守ってくれていたことでしょうか
後になって知ったけど、バンジージャンプって元々はバヌアツ共和国で行われている成人の儀式が起源なんだそう
自身の力強さと豊作祈願
私はある意味20歳の時、成人の儀式を自ら選んだようです
『人生をやり直せるなら
わたしは
もっと失敗をして
もっと馬鹿げた
ことをしよう』
というタイトルの本があるけれど
わたしも病院のベッドの上で今までの人生を振り返った時
この失恋バンジーはかなり馬鹿げていて愉快な出来事だった