中2で母
母が40歳で胃がんになって3分の2切除する手術をすることになった。
今から31年前 1990年3月某日
わたしは中2、妹は小6、弟は5歳 幼稚園。
うちは自営業で母も働いていた。
家を2年前に建て直したばかりだった。
当時わたしたちは母が胃がんになったというのは知らされていなかった。
胃の手術をしないといけないからしばらく入院する事になったと言われて、胃潰瘍とかなのかなとか思っていた。
母は人に心配かけたくないからとか、噂が広まるのが嫌だからと言って、親戚にも近所の人にも誰にも入院していることを言わないようにと言っていた。
看護師をしていた母の妹にだけには伝えていて、入院前に遺書を渡していったらしい。
わたしは学校が終わってすぐに帰らないと、弟の幼稚園のお迎えに間に合わなかったから部活の顧問の先生だけには伝えておいた。
「母が入院して家にいないので、家のことをしないといけなくなりました。
しばらく部活を休ませてください。」
学校から帰ってから着替えて、幼稚園に弟のお迎えに行くと
遠くから他のお母さんたちが何やらこそこそ話しているのがわかった。
わたしも卒園した幼稚園だったから先生たちとも懐かしく話をしていたら、近くにいたお母さんに
「あら、お姉さんだったのね!ずいぶん若いお母さんだなって思っちゃったわ〜」って言われた。
中2で母か。
弟と仲の良かった子のお母さんが事情を知って、そのうちに弟のお迎えも一緒にしてくれるようになった。
うちで一緒に遊ばせて夕方家まで送り届けてあげるからって言ってくれて、ありがたかった。
その間に、母の病院へお見舞いに行ったり家事ができる。
夕飯の支度をして、ご飯食べさせてからわたしは20時から塾へ。
22時半に帰ってきてから、次の日の朝ごはんの支度。
お米研いで、お味噌汁の出汁を用意してから学校の宿題と塾の宿題。
妹は小学校で給食があったけど、わたしは自分の分と弟の分のお弁当と朝ごはんを作らないといけない。毎朝必死だった。
なんか味が決まらないお味噌汁と、なんか硬さがしっくりこないご飯と、ふんわりしない卵焼きと、これさえ出しておけばなんとかなるウィンナー。
あとは海苔巻いて食べろー。
ふりかけかけて食べてくれー。
父は男子厨房に入るべからずで育った人なので、いっさいの家事をやったことがない。
それでも父がたまになんとか作ってみたジャガイモの煮物は、しょうゆの色で真っ黒でパサパサで砂糖で焦げかけた箸が進まない代物だった。
我が家は外食をすることはほとんどなかったし、できたお惣菜を買ってくることも滅多になかったので、とにかくなんとかしていた気がする。
たまに幼なじみのTちゃんのお母さんが様子を見にきてくれて、
「え!あなた出汁ちゃんと取ってるの?えらいわね。うちなんてほんだしよ!」って驚いてたけど、小学生の頃から一通り家事全般は母から仕込まれていたからそういうのは普通にできた。
何か食べたいものある?作ってあげるわよ!って言ってくれて
「マカロニグラタン」てリクエストしたら、ちゃちゃっと作ってくれて。
それがおいしかった。
病院も少し遠かったから平日はあんまりお見舞いにもいけなかったし、5歳の弟は1、2回しか病院に連れていけなかった。
母は心配だっただろうな・・・。
弟は毎日レゴで超大作を作っては、なんの躊躇もなく壊すを繰り返していた。
母じゃないとわからないので、会社の帳簿や請求書を大量に病室に持っていき、母は病院のベッドの上で、請求書を書いていた。
大変すぎて、みんなどうやって回していたのか記憶にない。
小6だった妹はなーんにも覚えていないそうだ。5歳ももちろん。
卒業式も母が参加することはできず、父だけ参加した。
そんなドタバタな毎日を過ごしているある日、わたしは担任の先生から職員室にくるように言われた。
フリージアとスコッチエッグ
わたしの担任の先生は、名前を聞いただけでみんなが震え上がるほど怖くて有名な体育の先生だった。
ドキドキしながら職員室へ行くと
「明日は大事なテストの日だから、先生がお弁当作ってきてあげるから作らなくていいよ。今日は勉強に集中しなさい。先生だって料理できるんだぞー。」って言われた。
先生知ってたんだ。
「それからこれ。先生お見舞いに行けないから、これでお母さんの好きな花を買ってあげて」と言って2,000円を渡してくれた。
びっくりした。
そう、明日は県下一斉の大事なテストの日だった。
明日の朝、職員室に寄ってお弁当を取りに来るようにいわれた。
先生が作ってくれたお弁当は彩りもきれいで、スコッチエッグが入っていた。
初めて食べたスコッチエッグ。
ゆで卵作って、ハンバーグの具みたいなので包んで、パン粉つけて揚げて・・・
すごく手のかかる料理だと思う。
人が作ってくれるご飯ておいしいなぁってありがたくいただいた。
職員室の前の水道の冷たい水でお弁当箱を洗っていたら、隣に人が来て同じようにお弁当箱を洗っていた。
ちらっとみたら、わたしと同じお弁当箱だった。
最近髪の毛が金髪になってきた同じクラスの女子だった。
お母さんが家を出て行っちゃったらしいよって噂を聞いたことを思い出した。
きっと彼女もわたしが洗っているお弁当箱を見て、何か訳ありなんだろうなって思っていたと思う。
お互いに何もしゃべらずに黙ってお弁当箱を洗って、先生に返しに行ってお礼を言った。
テストも終わって晴々とした気分で、母へお見舞いの花束を買いに行った。
花屋さんで「元気が出る花束にしたいんです」っ伝えて
かすみ草をつけたら、素敵な花束ができた。
毎日の生活のことに必死で、母が喜ぶようなことを考えてあげる余裕もなかったから、花束をプレゼントできることがすごく嬉しかった。
毎年この時期になると黄色いフリージアを買いたくなる。
1番好きな香り。
母が胃がんだったというのはそれからだいぶ経ってから知った。
「入院している時も痛くて痛くてね。
でも、家に帰ってきてからが大変で家事をやろうとしても、掃除機が重たくて持てなかった」って言っていた。
あの頃は母がそんなに大変だったとは知らず、反抗期で作ってくれたお弁当をわざと忘れていったりしたこともあったな。
でも、そうすると母がわざわざ学校に届けに来てくれちゃって
社会の授業中に
「すみません。ケイコの母ですが、お弁当を忘れてしまったので届けに参りました。」って入ってきて・・・。
逆に恥ずかしい思いをしたりしたっけ。
お弁当作ってくれる人がいるってありがたいことだぞ!!
23年ぶりに石垣で
時間は流れて23年後の2013年6月。
わたしの術後1年半くらいの頃。
石垣島に遊びに行くことになっていたわたしに、卒業以来会ったことがなかった中学の同級生からメッセージがきた。
しかも仕事で駐在してる海外から。
「先生いま石垣島に住んでいるよ。」
えーーー!そうなの?
石垣島に移住したんだよって、連絡先を送ってきてくれた。
連絡とってみれば?って。
わたしのこと覚えているかな?23年前だよ。卒業以来会ったことないけど。
でも、あの時のお弁当のお礼をいつかちゃんとしたいとずっと思っていたし、こんな機会はないと石垣のホテルから思い切ってメールしてみた。
すぐ、携帯に電話がかかってきた。
「久しぶり〜!覚えているよーーー。会おう会おう!明日ランチしよう。車で迎えに行ってあげるから!どこにいるの?」って、23年の月日どこへやらの感じで、ランチ決定。
うぁ〜緊張するな・・・。
とにかく怖かったんだから。
久しぶりに会った先生は、いい感じに日焼けしてすごく穏やかな顔で車から降りてきた。
まさか先生と石垣島で会うなんて思いもしなかったな。
石垣にはわたしの友人もたくさんいて、絶対にどこかと繋がっているだろうと思ったら、やっぱり。
何人か知り合いだった。
人生って面白いな・・・。
海を見ながらおしゃれなカフェでランチしながら、近況報告。
わたしが胃がんになった話をしたら驚いていた。
そして、つい先日自分の元生徒が胃がんで若くして亡くなってしまってショックを受けていたところで、本当に早く見つかって良かったねって言ってくれた。
23年前に先生が作ってくれたお弁当の話をしたら、
「えー、よくお弁当の中身まで覚えているね!」って驚いていた。
あの頃ケイコさん大変そうだったからね、せめてテストの日ぐらいって思ったんだろうねって。
幼なじみのTちゃんが学校の先生になった話とか、今でも繋がっている同級生たちの話をしたら、よく覚えていてみんなの活躍を嬉しそうにしていた。
「またいつでも連絡してね。今度はうちに泊まりにきな!」ってニカッて笑って手を振って別れた。
自分が母と同じように胃がんになって手術することになって初めて、あの時の母の気持ちを想像したらどんなに辛かっただろうかと。
こんなに痛い思いしていたのか・・・とか、退院してからももっと手伝ってあげれば良かったなとか。
さて次はわたしの「退院」です。
※このブログは両親には内緒なのでよろしくお願いしますね。
母が知ったら気絶するから!